ポーランドと日本が直接の交流が無かった昔、ポーランドと日本はどちらもモンゴル帝国に攻められながらも最終的にはモンゴル帝国の侵攻を食い止めた、という歴史があります。 この記事では、ポーランド騎士団と鎌倉武士の共通点について ご紹介します。
世界史を作ったモンゴル帝国
「世界史の始まりはいつか」については諸説あるそうですが、その中の1つにモンゴル帝国が世界史の始まり、という考え方があります。
モンゴル帝国の出現までは、ヨーロッパ諸国とアジア諸国はそれぞれ独立した歴史を展開していました。しかしながら、ユーラシア大陸の大部分を版図に持ったモンゴル帝国が出現したことで、共通の歴史を持つことになります。これがモンゴル帝国の出現が世界史の始まりの考え方の根拠です。
このモンゴル帝国の西の端でモンゴル軍と激突したのがポーランド騎士団、東の端でモンゴル軍と激突したのが鎌倉武士団でした。
ポーランド騎士団とモンゴル軍の激突
ポーランドとモンゴル帝国は、1941年にレグニツァの戦いで激突しました。ポーランドはドイツと連合軍を形成してモンゴル帝国に対峙しましたが、結果は惨敗でした。
重装騎兵が突撃する攻撃を主体とするヨーロッパの戦法に対し、モンゴル軍は機動性に優れた軽騎兵と、優れた集団連携、そして偽装退却という心理戦術を用いました。ヨーロッパの騎士たちは、誘い出されて隊列を崩されたところに、弓矢と騎兵による包囲攻撃を受け、なす術もなく壊滅しました。
戦いの後、モンゴル軍の目標であったハンガリーも壊滅させたにもかかわらず、本国のハーン死去により突然撤退したことが、ヨーロッパの幸運となり、本格的な征服を免れることになりました。
ポーランド武士団と鎌倉武士団の共通点
俗説では日本は神風によってモンゴル軍を撃退した、と言われており、この説に従えばモンゴルの侵攻を防げたのはポーランドと同様、幸運だったということになります。
これ以外にも、ポーランド騎士団と鎌倉武士は傭兵ではなく、名誉や規範を重んじた点も似ています。モンゴル軍に対しては、両者とも従来の戦い方とは異なるモンゴル軍の機動的な騎馬戦術や集団戦法に直面して翻弄されました。
ちなみにモンゴル襲来後、ポーランドは国土が荒廃し、諸公国に分裂した状態が続きました。1300年代初頭にポーランド王国として統一され、統一後は経済面でも復興・発展しました。この際、ポーランド王国の首都であるクラクフに建てられた大学がヤギェウォ大学です。
ユーラシア大陸の西と東で起こった全く異なる戦いがなんとなく似ている、ってことは、小ネタとして覚えておくと、ポーランドの人たちと話すときに役に立つかもしれません。


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