〜西洋の税と日本〜
ある日、授業の終わりに日本好きのクラスメイトとバーでビールを飲みながら会話をしていた時
クラスメイト「そういや今度のプレゼンだけど、自分の国の税制度についての話、もうトピック決まった?」
僕「一応いくつかは候補を考えてるよ。」
ク「俺は日本の米の税が面白いって思ってるよ。あれは興味深い。」
僕「ちょうど候補の中で一番に考えてるやつだ。よく知ってるね。」
ク「まぁ、有名だからね。」
まさかウクライナ人のその子の口から年貢制度についての言及があるとは思わなかったため、これしかないと決めて準備に取り掛かったわけです。日本の歴史には詳しくないので、あまり深いところまでは議論できません。しかし、聴く側もとりわけ日本の歴史に造詣が深いというわけでもないのでちょうど良いのです。
話は8世紀までに遡ります。改めて聞いても不思議ですが、米を税金として納める年貢制度が導入されたのは、日本最初の通貨である和同開珎が発行された時期とほぼ同時期でありました。この頃の年貢はかなり厳しいものです。田んぼの面積に応じて収穫から一定の量を収めるのですが、例え不作であったとしても指定された年貢米は毎年納めねばならなかったのですから米農家は気が気ではなかったでしょう。
鎌倉時代にもなれば通貨で税を納めるものも現れましたが、それでも米は税の中心であり続けます。
豊臣秀吉による天下統一後の太閤検地で、全国の田んぼの面積が正確に測られることになります。これには数学が用いられますが、その計算方法は複雑な形をした田んぼを三角形の複合であると捉え、パズルのように解くものでした。
ここで恐らく西洋の人々にとっては、近代化以前の日本にどの程度の数学があったかが疑問でしょうから、そこも説明に加えられるべきでしょう。
日本にあった数学、所謂『和算』は、元々中国にあった数学体系でそれを輸入して使っていました。一部は朝鮮経由で入ってきたものもあります。
西洋の数学体系と比べて、自然科学へ応用されることがなかったことが残念ではありましたが、江戸時代の和算家『関孝和』を例に大変高度な数学でありました。
無限級数の計算などで、よく用いられるベルヌーイ数については、ベルヌーイが導き出したのは1713年、関孝和が1712年とほぼ同時期に同じ計算が二つの異なる数学体系でされていることがわかります。
その後、詳しい税率や藩主の力が石高という米の収穫量で推しはかられたことや、武士の給料だったこと、なぜ米が税金の代わりとして機能していたかなどを話してプレゼンが終わりました。
教授を含め、多くのクラスメイトが関心を持っていたようで、質問がよく飛び交った良いプレゼンだったと括っています。
日本といえば、やはり近代のアジアの列強国というイメージが根強いのが西洋目線でしょう。そんな日本が僅か日露戦争の30年前までこのような原始的な税制度を持っていてそれが十分に機能していたとは多くの人が想像もしなかったでしょう。
江戸時代、人々は米の価格に敏感で、まるで株式のような側面も持っていた。米の価格の変動情報は手旗信号によっていち早く町を駆け巡りました。
「面白かった、良いプレゼンだった」そう言ってもらえることがプレゼンター冥利に尽きるのです。いつもより拍手の音が少しだけ大きく聞こえた日でした。
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