プラハ編② 〜ユダヤ人の謎を追って〜
ユダヤ人といえば、謎に包まれた人々です。歴史を遡って第二次世界大戦を思えば、当時のドイツによって迫害され、人類史に大きな傷痕を残す悲劇の中心にありました。一方で、今日のイスラエルを見れば、「パレスチナに対するその怒りの鉄槌は流石にやりすぎではないか?」と、悪者であるかのように批判される事もしばしばです。
今回、プラハを訪れた一番の理由は、そんな謎に包まれたユダヤの人々に肉薄したかったからです。
ユダヤ人の墓地
プラハの旧市街の一角に、ユダヤ人の墓地があります(彼らの言葉でゲットーという)。
今ではユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグと一緒に博物館の一施設として運営されていますが、そのちょっとした公園くらいの大きさの土地に12000人分もの墓が立っています。
一家族につき一基の墓石を立てる日本と違って、西洋の墓は個人個人で建てられるのが慣わしですから、その墓地には文字通り12000基の墓石が立ち並んでいることになります。
受付で入場料を支払うと、三つ折りの簡単なパンフレットと共に水色の薄い布でできたコースターのようなものを渡されます。後で知ったのですが、これはキッパと呼ばれるユダヤ人の被り物で、男性であれば、施設への立ち入りの際にはこれを頭に乗せるのが礼儀なのだそうです。ユダヤ教では女性は神に近い存在だと考えられているため、女性は被る必要がないのだそう。男性は神から程遠いため、頭を隠して恥を知りなさいと言うわけです。
ユダヤ人との出会い
シナゴーグを見て周り、展示物を横目に墓地へ向かうと、入り口から混み合っていました。
程なくして入場し、墓地を歩いていると、前を歩いていた女性が話しかけてきました。
「あなたはどこから来たの?」すかさず日本だと答えると今度は
「ではあなたもユダヤ人なの?」
いかにも東洋人顔で墓石にカメラを向ける青年にそんな質問をぶつけてくるあたり、自身をユダヤ人だと語るその女性は実にユーモアのセンスに溢れたお方なのだと思いました。
どうやら僕はその時、イスラエルから来た100人のユダヤ人観光客の集団に紛れてしまっていた様なのです。
日ユ道祖論
誰が言い始めたのか、古代イスラエルの失われた十支族の一部が日本に流れつき、古代日本人の文化の礎を築いたという説があるそうです。天皇家とユダヤ人の様々な共通点からそれらがつながっているのだとして支持する声もあるみたいです。もちろん、これは都市伝説の域を超えるものではなく、今となっては真実の知りようもございません。僕は元々これが日本人が自国にルーツを求めてこじ付けただけの眉唾だと思っていましたが、実は日ユ道祖論を初めに体系化したのはスコットランド人の宣教師で、外側から見た日本を解釈した説なのだそうです。
思えば文化開花の時期、『瞬く間に自らのリフォームを行い興隆する日本』を西洋はどんな目で見ていたのでしょうか。その歴史上類を見ない現象を理解する手がかりとしてこの日ユ道祖論を作り上げたのだと言われると妙な納得感があります。
この説に関しては、日本人よりも寧ろイスラエルのユダヤ人や西洋人の方が熱心な信徒と言えるのかも知れません。
ユダヤ人の墓には花を捧げるべからず
日本でもキリスト教のヨーロッパでも共通して、墓参りの際には切り花を捧げるのが一般的ですが、ユダヤ人の墓地を歩いていると、その切り花が一切捧げられていないことに気づくはずです。
切った花は死を象徴し、ユダヤ人は死して尚、墓石となって永遠に生き続けるのだからタブーとされているのです。切り花を捧げる代わりに石を上に積むのだとか。
もちろん生きているのだから、お墓を壊すことは許されません。墓石の移設も厳禁です。
それらが何世紀も何世代も続くとどうなるでしょうか?
当然、敷地が足りなくなるわけです。このプラハの墓地では限られた土地を有効活用するために、上から土を被せて、新しい階層を作り、その上にまたお墓を建ててきたのです。多いところでは12層にもなるのだとか。
墓参りは最後に手を清めて終わりです。日本人も神社を訪れた際には手水でお清めをするので、ユダヤ人も同じようなことをすると知って少し親近感が湧きました。
最後に
ユダヤ人については知れば知るほど謎が深まるばかりです。民族であるかのような語られ方をしますが、ユダヤ教徒を指すのが一般的です(なろうと思えば後天的にもなれる)。
キリスト教文化の中にひっそりと隠されたユダヤ教の習慣は、石製の建築で固められたヨーロッパの強固な外壁とその内側にあるナイーブな心情を思わせます。