ヨーロッパ旅行

ヴェネツィア編②

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〜世界一美しい広場〜

こんにちは、息子です。ヴェネツィア編第二弾始まります。

サンマルコ広場

 サンマルコ広場を見て、「世界一美しい広場」と称賛したのは他でもないイタリアを征服しフランスの皇帝、ナポレオン・ボナパルトでした。

このサンマルコ広場、ヴェネツィアの中でも低地で海に面しており、定期的にヴェネツィアを見舞う「アルア・アルタ」と呼ばれる洪水で、真っ先に水没する場所としても知られています。訪れた時期がちょうどクリスマスの時期だったので、広場には大きなツリーが飾ってありました。

海に面した二つの柱。左側は両翼の獅子。これはヴェネツィアの象徴であり、今でも、例えばベルガモの要塞跡にはヴェネツィア共和国領だった証としてこの両翼の獅子の紋章がみられます。右側はサン・テオドーロ。元々ヴェネツィアの中央教会で祀られる守護聖人だった偉人の像です。

ヴェネツィアの守護聖人を巡ってはこんな逸話があります。元々ヴェネツィアの守護聖人はサン・テオドーロでした。このギリシア人は偉人であるのは間違いないのですが、守護聖人としては一級と呼べるものでもありませんでした。そこで9世紀の半ば頃、ヴェネツィアの商人がエジプトのアレキサンドリアで祀られていた聖マルコの聖骸を買い付けてしまったのです。聖マルコは新約聖書の四つの福音書の一つ、マルコの福音書の著者でもあります。そこでテオドーロには引退してもらって、サン・マルコが守護聖人となるならば、キリスト教国家としても間違いなく一級の座を獲得します。ヴェネツィアはこうして伝統的なバックグラウンドを得ました。そして新たな守護聖人の名前を取って国家の最高責任者である総督(ドージェ)の住まう寺院をサンマルコ寺院、広場をサンマルコ広場としたのでした。

サンマルコ寺院

 サンマルコ広場の正面に鎮座するのは、サンマルコ寺院、かつて共和国の総督(ドージェ)の住処だった場所であり、その名の通り聖マルコが眠るヴェネツィア最高の礼拝堂です。

ここにはヴェネツィアの歴史をうかがわせる豪華な装飾の数々があります。十字軍遠征でコンスタンティンノープルから略奪してきた戦利品の多くも所蔵されています。有名なものはなんといっても四頭馬の銅像でしょうか。

この筋骨立派な四頭馬の銅像はコンスタンティノープルから持ち帰ってきたものですが、そこで作られたものでもありませんでした。この四頭馬は元々ローマにあったものです。諸説ありますが、一説によるとネロ帝の凱旋記念で作られたものなのだとか。それがなぜコンスタンティノープルにあったのかというと紆余曲折ございますが、簡単にまとめるとコンスタンティン1世が皇帝を勤めた時代に、首都を現在のイスタンブール(トルコ)、当時のコンスタンティノープルに遷都した経緯があり、装飾などの多くを一緒に持ってきてしまったのです。それがヴェネツィアの手によって再びイタリアの地に帰ってきたという事になります。

四頭馬の経緯

ローマ→コンスタンティノープル→ヴェネツィア

なぜ、コンスタンティンは新しく装飾を作らせなかったのか。作家:塩野七生によると、ローマ帝国はコンスタンティン1世の頃には衰退期にあり、このような芸術品を製作できる職人に不足していました。

それを物語る装飾もまたサンマルコ寺院には隠れています。

Wikipediaから引用「テトラルキア」

サンマルコ寺院の外壁の一角を彩るこの四皇帝の像、まさにローマ帝国の衰退期に製作されたもので、四頭馬の銅像と同じく、ヴェネツィアが十字軍の時にコンスタンティノープルから持ち帰ったものですが、両者を比較してみるとクオリティの違いは一目瞭然かと思います。

ヴェネツィアが語る国家の栄枯盛衰。国の情勢が傾くと、それは芸術にも現れるのです。

通貨安で『国力の衰退だ』などと騒がれる昨今の日本ですが、例えば、この視点から出発してみるとどうでしょうか?

次回は本、ガラス細工の中心地ムラーノ島をお届けします。

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