ヨーロッパ旅行

ベルリン旅行②

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〜ベルリンの冷たいコンクリート〜

こんにちは、息子です。今回はベルリン旅行編の第二回です。
 ベルリンと言えば、多くの方が思い浮かべるだろう、ベルリンの壁。
今回はその歴史について触れていきたいと思います。
以降、本記事は少し暗い内容を含みます。

ベルリンの壁

 季節は秋、山吹色の道を歩いていると、近代的でよく手入れの行き届いた街並みの中に、薄汚れたコンクリート製の壁が見えてきます。
この落書きに塗れて、ずっと遠くまで続く壁は『ベルリンの壁』と呼ばれています。何を隠そう、この壁はアメリカとソビエト連邦の間で 第二次世界大戦後から数十年にわたって長くづついた、『冷戦』を象徴する壁なのです。

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冷たい戦争

 英語ではCold War、『冷たい戦争』と呼ばれるこの言葉は、戦後のアメリカとソ連の間で直接の軍事衝突は起こらなかったが、世界各地で『代理戦争』という形でその衝突が表面化したことから、直接戦火を交える『熱い戦争』に対照するとして使われ始めた造語です。
 冷戦は国家間の戦争であると同時に、イデオロギーの戦争でもありました。

 話をベルリンに戻すと、第二次世界大戦敗戦後に、戦勝国である連合軍(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)によって管理されたドイツ。
当時のポツダム協定の宣言は、南をアメリカ、北がイギリス、西をフランス、そして東をソ連と、それぞれが分割して管理するというものでした。
 しかし、東に位置する首都ベルリンに関しては特約で、
その都市をまた四分割するという宣言がなされたのです。
 ここからはイデオロギーと経済の側面から成り行きを見てみましょう。
ソ連は社会主義国、その他の3カ国は資本主義国です。
今となっては半ば一般教養の範疇ではございますが、社会主義側から見れば、資本主義をとり入れた地域はアメリカからの援助もあり、みるみる経済的に発展し、復興を加速させていきます。国としては四分割ですが、イデオロギーと経済の面から見れば、社会主義(東側)と資本主義(西側)の二分割、所謂『東西分断』なのです。
 復興に成功し、瞬く間に豊かになっていく西側を、東側の人々はどのような目で眺めていたでしょうか。きっと羨ましかったに違いありません。
社会主義の地域の中にポツンと浮かぶ資本主義の西ベルリンは、さながら『資本主義のショーウィンドウ』でした。誰もが豊かな西側に移り住みたいと考えるはずです。また東側の政府もそんな移住考える民衆を野放しにしておくはずはありませんでした。

冷たいコンクリート

 1961年8月13日、それは一夜にして現れました。西ベルリンの全方位をぐるっと一周するように建てられたコンクリート製の壁です。それは東と西の完全な分断であり、壁を隔てた向こう側に住む家族や友人との三十年近くにも続く別れでした。『ベルリンの壁』です。
 『壁を越えて逃亡しようとする者は如何なる者でも発砲せよ』という東ドイツ政府側の命令もあり、ベルリンの壁が崩壊するまでの28年間で少なくとも200人以上もの人々が射殺されました。

ベルリンの壁の有刺鉄線を超えて、『死の帯』と呼ばれる40mを走り切れれば、西ドイツ。その40mがどれだけ長い距離だったか。平和の時代を生きてきた今の僕たちにはわからない。

だからこそ、少しでも思いを寄せようと壁に手を付き、目を閉じるのです。

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 今では『死の帯』は地雷や有刺鉄線の代わりに芝生が植えられています。

壁の崩壊と音楽家の影

 1989年11月、壁は崩壊しました。当時、強まるデモ活動や外国からの非難や圧力、ポーランドやハンガリーの非共産主化などの東欧民主化革命の混乱で、今にも崩壊寸前であったのは間違いないのですが「東西間の旅行を支障なくできるようにします。直ちに、遅延なく。」という、この歴史上最も素晴らしい勘違いと評される報道官の発言から一夜にして崩壊したのです。
 
 同月、崩壊する壁の前に世界的に有名なチェリストの姿がありました。
彼の名をムスティスラフ・ロストロポーヴィチです。
ロストロポーヴィチは、スターリンや社会主義を批判した作家である友人を匿った事で、反体制として国外追放、そしてついには国籍を剥奪されてしまいます。それでも再び祖国に帰ることを願って新たな国籍を取得したりはしませんでした。そんな非常に情の厚いロストロポーヴィチは阪神淡路大震災の際に来日し、故小澤征爾と共に、追悼公演をして回ったことも有名です。

ロストロポーヴィチがベルリンの壁崩壊に駆けつけた際に演奏した曲はバッハの無伴奏チェロ組曲でした。

 バッハの無伴奏組曲はヨーロッパの様々な地方の民族舞踊を取り入れられた6曲で構成されています。ドイツ風のアルマンドや、イギリスのジーグ、フランスのガヴォット、スペインのブーレなど、
この曲はある意味で、ヨーロッパを一つにしたような曲なのです。
 ベルリンの壁が崩壊し、再びドイツが一つへと向かう時に、この曲を演奏するポーヴィチの想いも垣間見える、そんな一場面ですね。無伴奏チェロ組曲は悦びに満ちた曲ではあるものの、実際の彼はそのような素直な演奏はしていないところも注目してみてください。

余談ですが、この時ちょうど報道をしていた日本のテレビ局のレポーターが
演奏するポーヴィチを見て「あそこに陽気にチェロを演奏している人がいます」と言ったことで批判を浴びたそうです。

今なお残る『東西分断』

 壁は崩壊しても、東西分断の爪痕は今だに残り続けます。
気になる方は宇宙から覗いて見てください。
今でも使われている街灯が違うのです。

ISSからみたベルリンの夜景
Earth Science and Remote Sensing Unit, NASA Johnson Space Centre

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